ABOUT

防大#19卒、元陸将、柴田幹雄によるウォーターカラーのポストカード、カレンダー、ポスターの販売。 特に力を入れているのがミリタリーを題材にしたもの。 <絵を描くようになったいきさつ> 陸上自衛隊で空挺部隊に勤務し、レンジャー課程も経て定年まで過ごしたのに冗談かと言われそうだが、幼いころは病弱でまともに幼稚園に通えなかった。よく風邪をひき、気管支炎になり家の中で過ごすことが多かった。そんな時の唯一の気晴らしは広告の裏に絵を描くことだった。 小学校でも教科書の余白やノートはいたずら描きで埋まっていた。その頃は男の子らしく戦車や飛行機、漫画のヒーローなどばかり書いていた。図画工作の時間が楽しみで、愛鳥週間や緑化運動のポスター、写生会などの作品が入選し絵具やスケッチブックなどを賞品としてもらったことを覚えている。   高校卒業後、防衛大学校へ入学をした。防大は全寮制で学生は学生舎と呼ばれる寮に居住することになっている。大学祭に当たる防大開校記念日のイベントの一つとして当時は5棟ある4階建てのそれぞれの学生舎の壁面にかける壁画を作成していた。私は3年生のとき第4学生舎の壁画作成委員長となった。私が描いた川中島の合戦の原画を120枚のベニヤに拡大、着色しそれをつなぎ合わせて学生舎の屋上からつりさげるというものである。多くの同期生・後輩の協力のもと大きな壁画を作成したことはよい思い出である。   防大を卒業し自衛隊勤務が始まった。年賀状や暑中見舞いを出すのだが、なにがしかの絵を描いて挿絵にしていた。愛用していたのはプリントゴッコという簡易謄写版のようなもので、これで数百枚のはがきにペン書きの絵を印刷し、一枚一枚水彩絵の具で彩色していたから、結構手がかかった。それでも葉書を受け取った人から今度はどんな葉書が来るか楽しみだなどと言われるとついつい年賀状にも力が入っていった。 また、自衛隊は2年ごとくらいに転属となり引越しをする。その挨拶状や、挨拶状を貰った返事の葉書などにも絵をいれていた。    自衛隊生活も後半は単身赴任が多くなり、自由な時間も増えた。暇な時に葉書に絵を描きためて置き、必要のつどそれを使っていた。そのうちA4の画用紙に絵を描き、スキャナーで画像データとしてパソコンに取り込み葉書に印刷するようになった。A4の紙に書くと紙の大きさもあり葉書に比べ自由にいろいろなものが描ける。それでまた戦車や航空機などを描いてミリタリー絵葉書を作って使っていた。      退職後は再就職したが、偕行社という陸自幹部のOB組織にも入会した。美術好きの会員で構成する偕行アートクラブにも所属して油絵を始めた。またそれとは別に女性モデルにポーズをとってもらい人物画を中心に描く油絵教室にも入り女性像を描くのも楽しんでいる。それぞれの会員で東京の画廊でグループ展を開催し私も毎年2~3点を出展している。また偕行アートクラブの有志を募って陸上自衛隊の富士学校美術展、通信学校美術展にも作品を出展している。    ミリタリーカレンダーは、3年ほど前に軍用車両や航空機の絵葉書を目にした防衛装備工業会という団体の事務局長から、会の機関誌の表紙の絵を描いてほしいといわれたことがきっかけで作り始めた。防衛装備工業会は自衛隊の装備品の生産、整備などに携わる企業で構成した業界団体であり、その団体の機関誌として「JADI」誌を毎月出している。誌面リニューアルを機に、私に「JADI」の表紙に使う絵を描いてほしいというオファーがあった。仕事やいろいろなボランティア活動の合間に毎月一枚絵が描けるか心配もあったが、伝統ある機関誌の表紙を飾る絵を描けることは大変な名誉でもあるので喜んで受けることにした。自分で撮影してきた写真やいろいろな資料を基に陸・海・空の装備の絵を毎月描くようになりもう3年になった。そしてこの絵を一年分まとめてカレンダーを作成するようになった。私の高校の同級生の女性が三島市でデザインオフィスを持っていて書籍の装丁、パンフレットのデザインなどをしている。彼女に頼んでカレンダーとしてのデザインや印刷の手配などをしてもらい、このカレンダーができるようになった。 最初は印刷部数も少なく、すべて友人などに配っていたが、欲しいという人も増え販売したらどうかという声があり、防衛大学校の売店、旭川の北鎮記念館などでもおいてもらっている。    絵を描くのが好きとはいえ、毎月締め切りがある状態で必ず月に1枚は表紙用の絵を描くというのは自らを律することになりとてもよかったと思っており、防衛装備工業会には感謝している。 絵を描く習慣ができると、いわゆる画家の目で回りを見るようになる。見慣れた風景も通りすがりの人も絵を描く対象として観察してしまう。目に映るものすべてが新鮮に見えて日々の生活も楽しいものになる。これからも絵を描くことを楽しんでいきたい。